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劇団四季『異国の丘』

劇団四季『ミュージカル異国の丘』
企画・構成・演出・台本/浅利慶太
(この日の)出演/荒川務、木村花代、中嶋徹、武藤寛、深見正博、田中廣臣、香川大輔、維田修二、中野今日子、団こと葉、青山祐士、日下武史、中村伝、岡本隆生、西田有希(劇団俳優座)、志村要、高橋征郎、西村麗子、…(ごめんなさい、全員書かずに)

 大・「劇団四季」さまがお相手ですから、芥子の粒ほどのブログが何を申し上げても問題ないでしょう。
 入場時に、浅利慶太氏による「昭和の歴史三部作」への思いを述べた文章をいただきました。思いは、わかります。惨憺たる歴史の中を生きてこられた世代として、次代の人間に伝えなければならないことを手渡していこうという意図はわかります。
 問いたいのは…、表彰された上演の質、質というと語弊があるかも知れません、上演の方法と言った方がよいでしょうか。その点に絞って書いてみます。
 より具体的に言うと、発声です。これはもう、四季メソッドと言ってもいいとおもうのですが、四季の役者さんからは言葉が〈はっきりくっきり〉聞こえてきます。けれども、そこに違和感を感じます。
 全身が悲しみに打ちひしがれていようとも、また腹の底からわき上がる怒りにうちふるえていようとも、そのときの言葉が〈はっきりくっきり〉聞こえてくるんです。
 なので、言葉の指し示す〈意味〉は、〈はっきりくっきり〉伝わってきます。
 けれど、私たちの日常生活って、いや言語生活って、こういうものでしょうか。何言ってるんだかわからなくってグジャグジャになりながら泣いたり怒ったり喜んだりしているんじゃないのかな…。
 劇団四季の作劇は、その言葉の持つ〈意味〉を非常に大事にしているのだろうということが感じられました。
 ただ…だとすると、わけのわからないことを言う酔っぱらい、なんて役はどう作るのでしょう…。ただこれも、〈わけのわからない〉ように聞こえる滑舌を練習して、正統たる〈わけのわからない〉発声をやってしまうのではないだろうか、なんて思ってしまいました。
 〈意味〉や〈論理〉を尊重、先行させるあまり、あふれるばかりの感情の吐露といったものがなかなか感じられませんでした。なんというのでしょうか…頭で理解している感じというか…。洗練されたダンスのステップも、歌も、技巧的に〈洗練〉されるということは、つまりはあふれんばかりの感情は制御され計算され造形されてしまっているということなのでしょうか。
 台詞でつないでいるときよりも、歌っているときの方が安心して見ていられました。台詞の時は、「ええっ、どうしてそんな語りになるの…!」という場面にたくさん出くわしてしまいました。
 ただ、ふしぎなのは…日下武史さんの語りです。日下さんの語りは他の方と違って、すうっと心の中に染みてきます。また、劇中他の場面では妙な宣言調な語りをしていた役者も、日下さんと絡むとナチュラルな語りに自然と戻っていってるんですよね…。それが不思議です。
 日本を代表する劇団は、いまや間違いなく劇団四季でしょう。また、そうあってほしいともおもいます。ただ、その劇団の発声がこうでは…うーん…少なくとも、こればかりは目標として目指すべき技術ではないように感じるのですが…劇団四季側は、舞台上での日本語の発声はかくあるべき、と考えられているのでしょうか…。このあたりのことについて伺える機会があったら聞いてみたいな、とおもいました。
 劇の内容には全然触れない感想でした。ただ、ぐぐっと引き込まれそうになればなるほど、この発語が気になってしまって…

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コメント

先日は私たちの公演にお越しいただきありがとうございました。
上記の発声についてはまったく同感です。といっても四季の舞台は恐れ多くてナマで見たことはないのですが、たまたまテレビで「南十字星」を観ました。
そのときは家族で大笑い(失礼!)してしまい、しばらく我が家ではこの発声で会話していました。

投稿: しんぺいの父 | 2009年7月 9日 (木) 01時48分

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